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執筆者の写真須賀雅子

㉖「お花見の歴史」

 

 新型コロナウィルスによって通常の生活が送れなくなっています。 「Mako’s話し方サロン」も3月はお休みにし、「残念ですが来月を楽しみにしています」という参加者の皆さんの言葉を心の支えにしておりました。 しかし、緊急事態宣言が発令され、4月もお休みとさせて頂きました。 4月のサロンでは、少しでも心が晴れやかになるように「お花見の歴史」についてお話をさせて頂こうと考えておりました。そこで私なりにまとめた「お花見の歴史」をこのブログの中でお伝えいたします。   「奈良時代」 花観賞といえば梅の花が一般的でした。遣唐使により中国文化の影響を強く受け、梅の木が持ち込まれました。万葉集には桜よりも梅を詠んだ歌の方が多かったのです。梅は110首、桜は43首詠まれています。 「平安時代」 遣唐使の廃止により日本古来の文化に注目し始め、古くから自生していた桜の美しさに心惹かれるようになりました。 古今和歌集では梅を詠んだ歌が18首、桜が70首と逆転しました。 812年、嵯峨天皇が京都の神泉苑にて「花宴の節」を催し、歌や音楽を楽しんだそうです。その後、桜の花見が貴族の間で急速に広まり、庭にこぞって桜の木を植えるようになりました。 「鎌倉時代・室町時代」 貴族の花見の風習が武士や一般層にも広がっていきました。 「安土桃山時代」 豊臣秀吉により花見の宴の規模が拡大しました。 1594年「吉野の花見」では5日間で5000人を招待し、歌や茶、能を楽しんだそうです。 1598年「醍醐の花見」では醍醐山に700本の桜を植え、1300人の客を招待し、 日本全国から献上された銘酒・銘菓などを振る舞い、参加した女性全員に2回の衣装替えを命じるなど趣向を凝らしたそうです。この豪華絢爛な花見によって、桜を見ながら宴会を楽しむという形に変化していきました。  ここまでは貴族文化からの花見の流れをご紹介してきましたが、これとは別に農耕儀礼としての農民の花見も存在していたのです。 農民は春になると、冬をもたらす山の神様を送り返し、春を呼ぶ田の神様を迎える行事を行っていたそうです。これは「春行き」「春山入り」と言います。 桜の下でお酒や食べ物を飲み食いして1日を過ごし、桜の色や咲き具合を見て、その年の稲の出来具合を占ったそうです。 「江戸時代」 これまでの貴族文化と農民文化が結びつき、都市の庶民の楽しみとして花見が定着したのが江戸時代でした。 8代将軍・徳川吉宗が「庶民が花見を楽しめる場所を作りたい」という思いから、墨田川の堤や飛鳥山に桜の木を植えさせたのです。  いつの世も、桜の花の淡い薄紅色に魅せられて、春の訪れを楽しんできたのです。しかし今年は、その花見を楽しむことが出来ませんでした。 当たり前に行われてきたことが出来なくなる。 物事の有難さを感じることが多くなった昨今です。 今はただ、心穏やかにサロンを開ける日を願っています。


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