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執筆者の写真須賀雅子

⑱「お花見」


 今年のお花見はどちらでなさいましたか? 我家のお花見は居間で行われました。夫が子どものように欲しがって購入した盆栽の桜をテーブルに乗せて、実に小規模なお花見となりました。

 片手で包み込めそうな小ぶりの桜の木は、小さいながらも精一杯、春の訪れを語りかけているようでした。

 このお花見ですが、桜の花を愛でるようになったのは平安時代からのことだそうです。遣唐使の廃止と共に、日本独自の文化を創り出そうという流れがあったようです。

 それ以前は、大陸からもたらされた非常に珍しい植物であった梅の花を愛でるのがお花見だったそうです。奈良時代の貴族たちは梅の花を好んでいたのですね。

 万葉集では桜の歌が40首、梅花の歌は119首も収められているのです。

万葉集といえば最近、新しい元号・令和の出典として注目されています。

 そこで、「Mako’s 話し方サロン」としても、今月はサロンの生徒さんと共に万葉集に寄り添っております。

 昔、昔、古典の授業で習ったのですが、心に残っているのはごくわずかな知識のみで、ほとんどは遠い過去に置き忘れてしまいました。

 本当にお恥ずかしいことですが、「Mako’s 話し方サロン」の信条は、何歳になっても知識欲を大切にしたいということですので、改めて万葉集に寄り添ってみました。

 新元号・令和は、太宰府長官の邸宅の庭で開かれた梅の花見を伝えた序文からによるものだそうです。

 『天平二年正月十三日に、師の老の宅にあつまりて、宴会をひらく。

 時に、初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉をひらき、蘭は

 はいごの香を薫らす。』

 この序文の一部にある令月の「令」と風和ぎの「和」が元号に採用されたようです。

 万葉集の歌の詠み手は、天皇から一般庶民まで身分を問わずに実に幅広くなっています。その中で防人の歌が気になり調べてみますと、九州沿岸の防衛のために徴兵された東国の人々の歌は胸にしみてきました。

 日本各地に万葉歌碑として残っているのですが、千葉市中央公園にも歌碑があることを知り、サロンの生徒さんにお伝えしました。

 その歌は、千葉から防人として九州に向かうため、可愛い恋人を置いていってしまう辛い心境が詠まれています。

 ある生徒さんは「えっ、あの場所はいつも通るのに気が付きませんでした」と仰って、なんと翌日「取材」に行って下さいました。

万葉時代の千葉の民の歌碑の写真をLINEで送って下さったのです。

 これは実に嬉しい「取材」でした。

その生徒さんの知識欲が刺激を受けて、実際に見るという「取材」につながったのですから!

 知らなかったことを知った時の喜びは、実に尊いものだと私は思います。



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